辺野古「自分事」と捉えて 平和も経済も追い求める 玉城沖縄知事インタビュー

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【辺野古「自分事」と捉えて 平和も経済も追い求める 玉城沖縄知事インタビュー】(中日新聞 8/20)

沖縄県の玉城デニー知事は十九日の本紙インタビューで、戦後七十四年をへた今、戦争の悲惨さを語り継ぐ立場から「沖縄の平和を発信し続ける」と訴えた。米軍普天間飛行場(宜野湾市)の名護市辺野古への移設阻止に向けては「全国の人に『自分事』と捉えてほしい」と呼び掛けた。主なやりとりは以下の通り。(聞き手・平田浩二編集局長)

■風化の危機

――太平洋戦争末期、沖縄では大規模な地上戦が行われ、多くの犠牲者が出た。住民を巻き込む苛烈な戦場となった。尊い命とともに、人類の、住民の文化そのものも破壊してしまう戦争を二度と繰り返してはいけない。戦後七十四年をへて、沖縄でも語り部がだんだんと現場から引退し、記憶の風化の危機に直面している。沖縄戦から学んだ戦争の悲惨さ、平和の尊さを後世に正しく継承していくこと。県としても、その作業をこれから絶えず続けていく必要がある。

――具体的には。

県では二年に一度、国際的に平和活動に貢献するNGO(非政府組織)などに「沖縄平和章」を贈り、懸賞している。本年度からは平和章の翌年にも、県内で草の根から平和に貢献した個人や団体などにも新たに章を贈ることにした。平和の思いをつないでいく事業をこれからも続けていく。今、日韓関係が冷え込んでいるが、沖縄では県内の学生とアジアの学生が交流し、平和を考えるシンポジウムを計画している。平和交流を広くアジア全体に呼び掛け、戦争を繰り返さないための対話の場をつくっていく。

――基地問題では政府との対立が続いている。

国土面積の0.6%にすぎない沖縄県には国内の米軍専用施設の70.3%が集中している。

その経緯を振り返ると、朝鮮戦争が起きた一九五〇年以降、愛知でも岐阜でもそうだが、全国で基地拡張への反対運動が沸き上がった。当時の岸信介首相は国民世論を抑えるため、本土で基地をつくらないよう米側と掛け合った。その結果が今の基地が集中する沖縄だ。銃剣とブルドーザーで家や田畑を奪われた県民の苦い経験を二度と繰り返してはいけない。新しい基地は受け入れられないと言い続ける。

政府は「辺野古が唯一の解決策」と繰り返し、多くの国民の関心をも覆い隠そうとしている。未来世代のためにも沖縄県民に再び負担を押し付けるようなことは絶対にやってはいけない。沖縄に限らず、もうどこも戦争のための「捨て石」になっていいはずがない。

■自立型経済

――沖縄では「経済振興」と「平和」の二項対立の構図が続いてきた。

一九七二年に沖縄が返還され、本土から二七年遅れていた道路などの基盤整備が進められた。沖縄振興のための法律、予算ができたことにより基盤整備が進んできたのは事実だ。そのおかげで県民はいよいよ自分たちで復興計画をつくり、自立型経済を築いていこうと歩み始めている。七二年当時、15%余りだった基地関連収入は、今は5%余りまでに減った。むしろ基地用地が返還され、その土地を活用した方が経済、雇用効果を何十倍にもする。沖縄の自立型経済構想のためにも一日も早く基地の返還を進めるべきだ。

――今年二月の県民投票では有資格者の四分の一が辺野古に「反対」と答えた。投票率は約52%で、反対票は投票総数の7割超。はっきり民意が示された。安倍晋三首相は「沖縄の民意に寄り添う」とおっしゃっているが、本当に実現したいなら。工事を断念するしかない。辺野古移設は今から二十三年前のSACO(沖縄に関する特別行動委員会)合意に基づいているが、そこに地域の声は反映されていない。日米両政府と沖縄の三者による協議をしていく必要があると、政府にも強く申し入れていく。

■共感 全国へ

――県外に沖縄の痛みは届いているか。

昨年七月の全国知事会では、日米地位協定改定に向けた提言を取りまとめた。辺野古移設でも「沖縄の民意を尊重せよ」との意見書が全国の三十の地方議会で可決されている。徐々にではあるが、声は広がりつつあると感じる。名古屋などでの全国トークキャラバンも、全国の皆さんに共感してもらえるような情報をしっかり発信しながら、理解と協力を求める狙いがある。先日、新潟県であった野外音楽イベントの「フジロックフェスティバル」に出演し、トークと歌で沖縄の基地問題を発信した。来場者は真剣にステージに目を向け、やじ一つとバスことなく耳を傾けてくれた。共感の輪を全国に広げていきたい。

――日米同盟や安全保障の言葉が出た途端、基地問題についていこう停止してしまう風潮がある。

思考停止に陥らないよう、私たちも発信する情報量を増やしていくことが重要だと思う。「玉城は『左』だから基地反対だ」と印象だけで語られることが多いが、私は今すぐ米軍基地を全部撤去しろとは言っていないし、日米安保も認めている。その意味で言えば、「中道右派」とも言える立場。この先何十年も私たちの領土の中に外国の軍隊が居続けることが幸せなのかどうか、一人の国民としてぜひ考えてほしい。

――政治思想や信条に左右されるものではないと。

「イデオロギーよりアイデンティティー」という言葉をよく使っていたのは、昨年亡くなった翁長雄志前知事。私は「誇りある豊かさ」ということを言い続けている。これまで革新系は「土地を渡さない、自治を確立する」という誇りを体現してきた。保守系は「経済を回して豊かにしていこう」と訴えてきた。

しかし本来は両方を一緒にやるべきでしょう。政策論争は腹八分、いや六分くらいにして、大きなテーマで一つになろうよとのメッセージを、保守本流の中から出てきた翁長さんが残した意味は大きい。その歩みを私も継承し、若い世代や県外の人にも沖縄の問題を「自分事」として捉えてもらえるよう、これからも発信を続けていく。

【「地方自治の危機」名古屋で訴え】

沖縄県の玉城デニー知事が19日、名古屋市公会堂(同市昭和区)で講演し、米軍普天間飛行場(宜野湾市)の名護市辺野古への移設について「(移設に)いくらかかり、完成がいつなのか全体像を示さないまま工事を進めている」と政府の姿勢を批判した。

玉城氏は講演で、沖縄県が辺野古沿岸部の埋め立てが承認を撤回したことへの対抗措置として、国が撤回の効力を停止する手続きをとったことに言及。「さまざまな知事権限であるものを国が『われわれの判断でいい』というような状況が認められれれば、地方自治はお上の言うとおりにやれということになり、沖縄だけの問題ではなくなる」と述べ、沖縄県以外の国民も「自分事」として考える必要があると訴えた。

さらに玉城氏は、辺野古の埋め立て工事の進捗率が2.8%にとどまっているという沖縄県独自の試算を公表した。

この日は約780人が聴講し、講演のほかパネルディスカッションも開かれた。

【沖縄地上戦】

太平洋戦争末期の1945年3月26日、慶良間(けらま)諸島に米軍が上陸して始まった。6月23日に日本軍の司令官らが自決し、組織的な戦闘は終わったとされる。軍人以外の多くの沖縄県民が犠牲になった。
国は沖縄戦の戦死者数を調査していないが、県の調べでは、軍人軍属を含む日本人の死者数は18万8136人。このうち沖縄県民が12万2228人を占め、うち一般の県民は9万4000人に上った。12万人の中には、看護要員として動員された「ひめゆり学徒隊」らの集団自決や餓死者、県外に疎開するため子どもたちが乗っていた戦時船舶への爆撃、スパイ容疑をかけられた住民虐殺なども含まれる。このほか米兵らも1万2000人以上が亡くなった。

沖縄県は6月23日を「慰霊の日」と定め、最後の激戦地だった糸満市摩文仁(まぶに)の平和祈念公園で全戦没者追悼式を開催している。

【日米地位協定】

日米安全保障条約に基づき、日本に駐留する米軍と軍人軍属、家族の法的地位、基地の管理、運用を定めている。具体的な解釈や運用改善は日本の外務、防衛担当者と米軍人による原則非公開の日米合同委員会が協議している。米軍人らに対して特権的地位を認めているとの批判がある。

1995年には沖縄本島で米兵3人が女子小学生を車で連れ去り暴行する事件が発生。沖縄県警は3人の逮捕状を取り、米軍に身柄引き渡しを求めたが、米側は協定を理由に拒否。3人の身柄は起訴後に日本側へ移り、懲役の実刑判決が確定した。

事件を機に、日米両政府は、米兵が殺人や強制性交などの凶悪犯罪を起こした場合、起訴前の身柄引き渡しに米側が「好意的考慮を払う」ことで合意した。ただ最終的な決定権は米側にあり、沖縄県などは改定を求め続けている。

【辺野古移設】

1996年4月、当時の橋本龍太郎首相とモンデール駐日米大使が沖縄県宜野湾市の住宅密集地にある米軍普天間飛行場の返還で合意。前年に米兵による少女暴行事件があり、県民の怒りが沸騰する中でのことだった。

名護市辺野古が移設先に決まったのは99年。当時の稲嶺惠一知事が15年を使用期限とすることを条件に受け入れを表明した。だが政府は恒久的な施設をとする現行計画を2006年に閣議決定。今も続く県と政府の対立の火種が生まれた。

13年には仲井真弘多(なかいま・ひろかず)知事が辺野古沿岸部の埋め立てを承認したが、翌年の知事選で移設反対を掲げた翁長雄志氏が大勝。翁長知事は承認を取り消し、県と政府が法廷闘争するまでに対立が激化した。昨年末に政府が埋め立て区域への土砂流入を開始する中、今年2月の県民投票では移設に「反対」が7割を超えた。