研究・報告

専守防衛と日米同盟のジレンマ(柳澤協二)

柳澤協二
新外交イニシアティブ(ND)評議員
元内閣官房副長官補

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◆専守防衛とは何か

1945年、日本は、米国を中核とする連合国に降伏し、米軍の占領統治のもとで武装解除された。占領軍司令部が起草した新たな日本の憲法は、天皇に変わって国民を主権者と定め、基本的人権の尊重を政府に求めるとともに、国家の権利としての戦争を放棄し、陸海空軍その他の戦力の保持を禁止するものであった。戦争による被害と共に、物資の欠乏と自由の制約に苦しんでいた日本の国民は、これを歓迎した。

憲法9条が定める戦争の放棄は、日本人の反戦的性向の象徴として、日本政治の基本的方向性を規制するものとなった。同時に、冷戦という現実の中で、日本は、自らの安全保障を米国に依存することになる。そして、日本が経済成長を遂げ国力を増大させるとともに、米国は70年代から、日本に独自の防衛力増強を求めるようになる。

こうして、日本の防衛論議は、米国との協調と憲法の反戦条項との矛盾をいかに整合させるかを焦点に議論されることになった。

専守防衛という語は、1970年代以降、日本の防衛の基本姿勢として、「侵略があれば武力で抵抗するが、自ら他国に脅威を与えることはない」という抑制的な姿勢を示すものとして使われている。これは、自衛隊が、「国際紛争を解決する手段としての武力の行使と武力による威嚇を禁止する」日本国憲法9条に反しないための基準であった。同時に、「核を持たず、作らず、持ち込ませない」という1967年の非核3原則とあいまって「他国に軍事的脅威を与えるような軍事大国にならない」という日本の安全保障政策における国内コンセンサスの土台を形成するものであった。

具体的には、次のような形で自衛隊の運用や兵器体系の指針となってきた。

  • 他国からの侵略が生起し、又は切迫しているときに限って自衛権を行使し、侵略を排除するために必要な限度にとどめること。
  • ICBM、戦略爆撃機、攻撃型空母のように他国に壊滅的打撃を与える兵器は持たない。
  • 有事における米国との共同防衛について、攻勢作戦は米軍が行い、自衛隊は、米軍基地を含む日本本土と周辺海域での防衛的作戦を行うこと。これは、米軍の「槍」と自衛隊の「盾」の役割分担とも言われていた。

70年代の日本は、極東における米ソ対峙の最前線として、「核の傘」を含む米国の抑止力に依存する一方、大国間の戦争に巻き込まれるリスクをできるだけ避けようとしていた。専守防衛の政策は、日米同盟の抑止力を維持しつつ、日本の役割を国土防衛に限定することで、大国間の戦略的均衡を複雑化させないことを考慮したものであった。

米国も、日本の防衛力の近代化を慫慂する一方で、日本が独自の軍事的アクターとなることを望んでいなかった。在日米軍は、ソ連を抑止して日本に安心を与えると同時に、

日本が軍事大国となるのを防ぐという二重の役割を担っていた。

 

◆日米同盟と専守防衛

日本政府が、日米安保条約に基づく日米関係を「同盟」と呼ぶようになったのは、1980年代である。それまで、過去の戦争と米国のベトナム戦争への忌避感のため、「軍事同盟」を連想させる言葉を避けられてきた。

70年代末から軍事力近代化を進めるソ連に対する脅威感が強まった。日本は、自ら「西側の一員」と位置づけ、日本列島の3つの海峡と1000浬のシーレーンにおいて、ソ連潜水艦を探知・攻撃する能力の向上を目指した。

当時、日米の経済摩擦が政治的課題となっていた。日本はこれを深刻に受け止め、経済対立よりも安全保障関係が優先されるべきことを示すためにも、「日米同盟」という語を、米国に対するメッセージとして使う必要があった

西太平洋シーレーン防衛によって自衛隊の役割が地理的に拡大し、米国の軍事戦略を補完する位置づけが明らかとなったが、日本政府は、自衛隊の役割を防衛的作戦に限定し、「専守防衛」を逸脱しないことを強調することで世論の同意を求めた。

 

◆冷戦終結から新たな同盟協力へ

冷戦が終結し、1991年にソ連が崩壊すると、防衛費削減を求める世論が高まった。日米同盟も、ソ連という共通の脅威を失い、「漂流する時代」と言われた。

91年の湾岸戦争では、日本は、憲法の制約のため軍事的な貢献ができず、先進国として、国際平和への貢献の必要性が認識された。日本は、「憲法が禁止する武力行使」ではない枠組みとして、国連PKOへの非戦闘部隊の派遣を可能にする法律を作り、92年、カンボディアPKOに自衛隊の工兵部隊を派遣する。

93年には、北朝鮮の核開発が明らかとなり、冷戦的な大国対立とは異なる新たな環境における日米同盟協力の必要性が認識された。

日米両国は、「日米同盟の再定義」の作業を行い、97年、「日米同盟協力のための指針」を改定する。従来の指針では、自衛隊と米軍の協力を日本有事に限っていたが、新たな指針では、日本防衛以外の作戦を行う米軍を支援することが可能になった。ただし、自衛隊の活動は戦闘が行われない地域に限り、物資の輸送、情報支援、捜索救難といった、戦闘を目的としないものに限定されていた。自衛隊の行動が専守防衛の枠を越えることはないと説明された。

911を経て、対テロ戦争に乗り出した米国は、「有志連合」への参加を各国に求めた。日本は、2004年、イラクの戦後復興のために自衛隊を派遣し、日米同盟は「かつてなく良好」(better than ever)と言われることになった。ただし、自衛隊の活動は、道路補修などの民生事業に限定され、米軍の掃討作戦とは切り離されていた。その「かつてなく良好」な同盟は、「米国が料理を食べ、日本とNATOが皿を洗う(米国が戦争して日本とNATOが後始末をする)」という構図で成り立っていた。

自衛隊の海外派遣では、今日まで一人の戦死者・戦傷者も出しておらず、国民世論の過半数の支持を得る要因となっている。

 

◆中国の台頭の中で

米国が対テロ戦争に集中する間、中国が米国の優位を脅かす存在として浮上してきた。

米国が中東からの撤退を優先することで、「かつてなく良好」な同盟の構図が失われ、新たな同盟漂流の時期を迎える。米国が中国との対話を重視し、軍事費の削減を進めるなかで、日本に「米国から守ってもらえない」心配が生まれた。日本は、米国の再保証を求めるために、日米同盟強化に積極的に乗り出すことになった。

2015年、日本は、安全保障関連法制を制定する。それは、以下の政策パッケージである。

  • 日本有事以外でも米軍を守る作戦を可能にするため、戦後日本が一貫して憲法に抵触するとしてきた「集団的自衛権」を行使する。
  • 世界のホット・スポットとなる地域で米軍が軍事行動を行う場合に、日本が後方支援を行う。これには、弾薬の提供や、作戦行動中の航空機への給油等を含む。
  • 自衛隊は、訓練や警戒監視などで、ともに行動する米軍の艦艇・航空機を防護する。

これによって、自衛隊と米軍の作戦上の統合が進むことになった。安全保障法制は、米国から「見捨てられる」心配をなくすために、米軍の戦争に「巻き込まれる」という選択であった。自衛隊の行動を米軍の戦闘と分離することで保たれてきた専守防衛は、有名無実となったが、自衛隊自身が敵の領域を攻撃することまでは想定されていない。

 

◆ミサイル軍拡競争の中で

専守防衛を崩壊させるもう一つの要因は、弾道ミサイルである。弾道ミサイルは迎撃が困難であるうえ、移動発射台に搭載され、すべてを破壊することもできない。

日本では、敵のミサイル基地を攻撃する能力を保有したいという願望があり、自衛隊の巡航ミサイルの長射程化と高速滑空型弾道弾の開発が始まった。政府は、正式な方針を決定していないが、やがてこうした兵器が導入されるだろう。これは、専守防衛の終わりであると同時に、先制攻撃の誘因を高め、戦略的安定性を損なうことが懸念される。

中国は、米軍に対するA2AD能力の強化のため、IRBMの開発・保有を続け、現在、グアムや空母を攻撃可能なミサイルを含む1000発以上を保有している。一方米国は、旧ソ連とのINF条約に従って、この種のミサイルを持っていない。このギャップが、西太平洋における米国の優位を脅かす最大の要因となっている。米国は、新たな中距離ミサイルを開発し、日本への配備を計画している。

日本は、新たなミサイル軍拡競争の舞台になろうとしている。だが、中距離ミサイルでは、日本と中国がお互いの射程に入るが、米国本土は除外されているため、日米の脅威認識のギャップが避けられない。また、ミサイルの配備には住民の反対が予想され、政治的ハードルが高い。

◆結語

米中対立の中で、抑止のための最適なプランが見えない状況である。ミサイル軍拡を抑止の中核にすれば、日本を巻き込むミサイル戦争のリスクを高めることになる。その恐怖の均衡が日本にとって最適な解と言えないことは明らかである。

日本には、専守防衛の意味を再評価すると共に、対立を緩和する外交的出口を求める発想の転換が必要である。専守防衛とは、「相手を武力で屈服させることはしない。すなわち、戦争に勝たない戦略」である。それによって、逆説的ではあるが、近隣国が日本に対する恐怖心を持つことで戦争をしかけようとする要因をなくすことを意図している。

一方、米国の抑止力とは、米国が報復する恐怖心を与えることによって、潜在的敵国に戦争を思いとどまらせることを意図している。

戦後の日本は、この両面を使い分けることを自らの安全保障政策としてきた。今日、抑止に偏れば米中戦争に巻き込まれるリスクを高める時代である。日本の安全保障の再構築が問われている。

 

柳澤協二

新外交イニシアティブ(ND)評議員/元内閣官房副長官補/国際地政学研究所理事長。1970年東京大学法学部卒とともに防衛庁入庁、運用局長、人事教育局長、官房長、防衛研究所長を歴任。2004年から2009年まで、小泉・安倍・福田・麻生政権のもとで内閣官房副長官補として安全保障政策と危機管理を担当。