沖縄の翁長雄志知事が8月8日、逝去した。現在この原稿を、翁長さんの葬儀に出席した帰りの飛行機の中で書いている。眼下に広がる沖縄の海のエメラルドグリーンがとても美しく、まぶしい。
沖縄にとって偉大な存在
翁長さんの葬儀には4500人の人々が参列した。焼香を待ちながら長い列ができ、1時間弱も待っただろうか。沖縄でこれまでお世話になってきた方々に数多く顔を合わせた。なんと言葉にしたらよいかわからない共通する気持ちを確認し合うような面持ちで会釈を交わした。
膵がんとの発表があった今年(2018年)5月から、写真で見る翁長さんは徐々に痩せていった。県庁での執務は週に1回程度だった。それでも、こんなに急に容態が悪くなり急逝するとは、誰も考えていなかった。7月27日に、ついに、辺野古の埋め立て承認を撤回するとの表明をした直後のことであった。
8月8日夕刻、意識混濁のため副知事が職務代理するとのニュースが飛び込む。その数時間後に、逝去の報道が全国に流れた。
8月11日、沖縄では県民大会が開催された。県民大会は、数万人が集まって、基地問題などについてその意思を強く社会に表明する場である。今回の県民大会は、もともと日本政府が8月17日に辺野古の海に土砂を投入する予定としていたため、これに反対の意を示すために企画されていたものだ。しかし、この日は、併せて翁長さんの追悼集会となった。
参加した友人によれば、集まった7万人の中には、普段は新基地建設反対の集会等に参加することのないような人も多く、そういう人々も翁長さんが先頭に立っていた辺野古基地反対についての思いを口にし、沖縄が一つにまとまることの意義を述べていたとのことであった。
こんなに惜しまれて送り出された政治家が、近年いただろうか。
多くの沖縄の人々が、翁長さんの死で、自分の一部が欠けてしまったかのような強い衝撃を受けている。ある若い友人は、遺骨の入った箱を見て、「ついに承認撤回を表明して力強く演説していたあの翁長さんが……」と思わず号泣した、と私に話してくれた。葬儀場でずっと動かない若者もいた。多くの人が「沖縄にとって翁長さんがいかに偉大な存在だったかを失って改めて感じている」と話し、「歴史に残る知事だった」と語る。
沖縄人(ウチナー)の友人の言葉を借りれば、翁長さんが沖縄の人々にとってここまで大きな存在であったのは、翁長さんが辺野古基地建設に反対だったからだけではなく、沖縄人とは何か、沖縄のアイデンティティーとは何かを思い起こさせてくれたからであり、沖縄の人々が一体となる機会を作り出してくれたからだ、ということであった。
類い希なる実行力
沖縄人(ウチナー)でない私が、翁長さんについてつれづれ書くことが適切なのかどうか分からない。ただ、本土出身者の中ではかなり深く沖縄の基地問題にコミットしている者として、私なりの思いを翁長さんに抱いている。
翁長さんと初めてゆっくり話をしたのは、翁長さんが那覇市長の時だった。私は那覇市役所の市長室で、「日米外交には沖縄の声が届いていない」「沖縄が自らの声を自分でワシントンに届けねばならない」と翁長さんに一時間にわたって訴えた。翁長さんは、沖縄の対外発信はなぜ大事なのか、どうあるべきなのかについて自身の思いを熱く語っていた。早口で本当によく話す方だなあ、というのがその時の印象であった。
その後、知事選挙への立候補を決意した翁長さんに、私は、当選した際には沖縄県のワシントン事務所を作るべきだと提言した。翁長さんは選挙対策本部とも相談しながら、沖縄県ワシントン事務所の設立を選挙公約に入れ、当選後、公約通りワシントン事務所を設立した。「こんな少ない予算組みで、十分ではないと批判されてしまうかもしれないが……」と笑顔で翁長さんは私に報告してくださったが、その実行力に感銘を受けた。
私は、日米外交に苦しんでいた政権当時の民主党にも同じ提言をしたが、賛意は得つつも、「お金がない」「どうしてワシントンだけ? といわれてしまう」と、様々な理由で実現しなかった。
その後、翁長さん自身も、何度もワシントンに足を運び、アメリカのポリシーメーカーたちに沖縄の辺野古基地反対の声を自ら伝えた。翁長さんの遺産とも言える沖縄県のワシントン事務所は、今日も沖縄の状況をアメリカの人々に伝えるべく、ワシントンで活動している。
保守政治家、翁長雄志
翁長さんが辺野古の基地建設に強く反対していたことから、特に本土では、「あんなに政府に楯突いて」「左寄りすぎるんじゃないか」といった批判をする人も多かった。あるいは、本土で新基地建設に反対する人々の中には、翁長さんをリベラルの旗手のように捉えている人もいた。
しかし、翁長さんは最後までとても頑固な保守の政治家であった、と私は思う。沖縄を心から愛し、誇りに思っていた。それと同時に、日本の保守政治家として、日本への想いももっていたし、また、日米同盟も重視していた。
私は、翁長さんの様々な政策について、(周りの沖縄の人々に負けないくらい)こうした方がいいんじゃないか、ああした方がいいんじゃないか、と言い続けてきた。私が沖縄と関わるのは主として日米外交の観点からだが、沖縄県ワシントン事務所でこんなことをやってはどうか、訪米行動はこうした方が良い、こんな英語発信をしてはどうか、等々。翁長さんには「文句ばかり言う人だ」と思われていたかもしれない。
私が様々話すのを聞きながら、翁長さんから「猿田さん、私たち保守の政治家は、そういうふうには動かないんだよ」と、言われたこともある。
翁長さんは、常に、自分が保守の政治家であることを誇りに思い、そのように自分を画しながら行動していた。
リーダーとしての威厳
しかし、だからといって様々な意見に頑なに耳を貸さない、というわけではなかった。私が出版した沖縄外交にも関係する書籍を翁長さんに手渡そうとした時、「あなたの本はみんな買って読んでるから要らないよ」と言われたことがある。あちこちからいろいろなアイデアが寄せられ、時間も限られているであろうに、私の本まで読んでいるとは……。「本当に懐が深く、広くアンテナを張って、勉強しておられる方なんだなあ」と感激した。
悩むことも多かっただろうが、その様子はみじんも周りに見せず、リーダーとしての威厳を備えていた。
ある時、週刊文春(2015年4月23日号)に、翁長さんと一緒に私が強烈に批判されたことがあった。翁長さんと共に私の顔写真も電車の中吊り広告などに大きく掲載され、多くの沖縄の友人たちから心配の声が寄せられた。その直後、ワシントンで翁長さんに会った際に「文春に一緒に叩かれましたね……」と私が言うと、翁長さんは一言、「光栄です」と、いつもの満面の笑みで返事をした。
叩かれることに対して「慣れ」をも超えた余裕を感じた。
翁長さんは、自民党出身者から共産党まで様々な価値観の人々をとりまとめていかなければならなかった。日本政府や新基地推進派のみならず、新基地反対派の中からも厳しい批判が寄せられていた。少しでもバランスを崩せば「オール沖縄」が壊れる危険もあり、常に難しい采配を迫られていた。
周りには柔軟な姿勢を見せながらも、根はとても頑固な人であったし、最後まで重要な事項を一人で決定する孤独な人でもあったと思う。
翁長さん亡き後の知事選挙
9月30日には、知事選挙がやってくる。
翁長さんの後継として、玉城デニー氏(衆議院議員)が新基地建設反対を訴えて立候補する。
葬儀の後、地元の若い世代と夕食を共にした。まだ候補者の名前は絞られてすらいなかったが、20代30代の彼らは、政治家たちが動くよりも早く選挙モードに切り替わり、どんな候補者でも応援できるよう一足先に作戦会議を始めていた。どうすれば関心を持ってもらえるか、ポスターをどうするか、本土から応援に来た人々をどうやって受け入れるか、具体的な作戦を次々とまとめ、仲間のLINEグループに流していく。
選挙戦で彼らは、本当に力強い戦力になるだろう。
翁長さんを追悼する沖縄の人々のムードを一変させるように、政府側は、本土から大量の資金と著名人を沖縄に送り込み、辺野古基地反対陣営を全力で潰しに掛かるだろう。選挙の重要性からして、政権与党側の介入度合いは、名護市長選挙の比ではないはずだ。
常套(じょうとう)手段の争点外しも再び行われるだろう。8月17日に予定されていた辺野古への土砂投入は、選挙に不利になるため行わないことになった。表向きは「沖縄の方々の喪に配慮して」という名目だが、選挙が終われば直ちに工事を再開するだろう。
土砂投入を延期したのは良い。
しかし、日本政府は争点外しをやめ、堂々と辺野古基地建設について真正面から問う選挙を行うべきである。
簡単に「基地賛成派」「基地反対派」と言ったりもするが、沖縄で基地の存在に「賛成」している人はごくごく少数である。「どうせ国には勝てず、作られてしまう」「それなら何もないよりは経済振興した方がいい」そんな声が基地を容認する人の中で大半を占めている。基本は「条件付き基地容認派」にすぎない。
翁長さんの遺志
翁長さんが絶対に譲らなかったことが辺野古基地反対以外にもう一つある。沖縄に対する差別に毅然(きぜん)と闘うことだ。そのためには、日本政府などに対して強い言葉をぶつけることもいとわなかった。
「ウチナーンチュ、ウシェーティナイビランドー(沖縄の人をなめてはいけない)」
「イデオロギーでなくアイデンティティー」
翁長さんが呼び起こした沖縄のアイデンティティー。翁長さんは、生前「ウチナーンチュが心を一つにして闘う時には、おまえが想像するよりもはるかに大きな力になる」と息子さんに語っていたとのことである。
本当にあるべき沖縄とはどのようなものか。
沖縄の方々が、いろいろなしがらみから解き放たれて一票を投じられる知事選となるよう心から願う。
(集英社「情報・知識&オピニオン imidas」猿田佐世連載「新しい外交を切り拓く」第13回 2018年9月3日)