研究・報告

米・イラン危機の行方 戦争回避、日本も努力を (藤原帰一)

戦争へのエスカレーションはどうすれば回避できるのか。年初に展開したアメリカ・イラン危機のなかで考えさせられたのはこの問いだった。

1月3日、イラン革命防衛隊の精鋭コッズ部隊のソレイマニ司令官が、米軍の無人攻撃機によって殺害された。イランは8日に米軍の駐留するイラクの基地にミサイルを発射した。

戦争の危険が高まるなか、イランのザリフ外相が報復は完了したと発表し、これ以上攻撃は加えない意図を窺(うかが)わせた。トランプ米大統領もイランは沈静化しつつあると述べた。

イラン政府は危機を拡大しない方針をなぜとったのか。イランがミサイルを発射したしばらく後、テヘランを離陸したウクライナ航空機が墜落した。ミサイル誤射によることをイラン政府が認め、ロハニ大統領が謝罪したのは数日後だが、この誤射が影響した可能性は高い。

いかに誤射によるとしても、民間人多数を殺傷する行動は弁護の余地がない。撃墜した事実をアメリカが暴露すれば、アメリカがイラン本土に大規模な攻撃を加え、その攻撃をアメリカ国民が支持する可能性も生まれる。アメリカとの戦争で勝利を収める公算の乏しいイランにとって破滅的事態だ。

つまり、航空機撃墜という致命的な誤りがイランの不拡大方針を支えていると考えられるのである。また、革命防衛隊強硬派に対してロハニ大統領の影響力が短期的には拡大し、欧米諸国を軍事的に挑発する行動も収まっている。

だが問題はこれだけでは終わらない。イラク、そしてイランの国内政治の不安定が背景にあるからだ。

過激派組織「イスラム国」の退潮とともにイランと結びついた勢力がシリアからイラクにかけて相対的な優位に立ったが、それらの武装勢力がイラン政府の指示に従って行動するとは限らない。昨年末のイラクでは米軍の駐留するグリーンゾーンを取り囲むように群衆が集結して示威行動を展開した。米軍撤収を求める勢力による米軍兵士への攻撃が繰り返されたなら、アメリカが革命防衛隊を再び攻撃する可能性が生まれる。そのときイラン政府が不拡大方針を貫く保証はない。

既にイラクでもイランでも反政府運動が高揚し、イラクでは武力弾圧による死者が増えている。イラクの内政不安定はイランの強硬派によるイラク国内の活動を強めかねない。統治の不安定化が国際危機を拡大する構図である。

これまでのトランプ政権は脅しには積極的でも戦争には消極的だった。イランとの6カ国核合意から離脱して経済制裁を再開し、核合意にとどまる各国に経済制裁への参加を要求するなどイランに最大限の圧力を加え、サウジアラビアの石油施設にイランからとおぼしい攻撃が加えられた後もイラン本土を攻撃しなかった。

武力行使に訴えなければ威迫の効果は乏しい。ソレイマニ司令官殺害は、イラン本土への攻撃ではないが革命防衛隊に打撃を与える点において、最小限のコストで最大限の効果を上げる選択だった。

だが、束(つか)の間の平和が長続きするとは考えにくい。アメリカ・イラン両国は不拡大方針をとっているが、昨年12月に見られたようなイラクにおける米国人殺害が相次ぐことになれば、全面戦争の意思はないのに武力行使に訴えざるを得ない状況が再現してしまう。

6カ国核合意は、核開発を制限すれば経済制裁を段階的に解除するという取引だった。合意から撤退したアメリカは、イランがどのような政策に転換すれば制裁を解除するのか明示していない。解除条件を示さない経済制裁が相手の行動を変えることは期待できない。6カ国核合意のような外交の試みを無視する限り、国内の反体制運動によってイラン政府が倒れることを期待するか、イラン本土への攻撃に追い込まれるか、どちらかの選択肢しか残らない。

力を示せば戦争を防止できるとは限らない。第1次世界大戦前のオーストリアとセルビアとの間には明らかな力の格差があったが、力の差にもかかわらずセルビア人青年はオーストリア皇太子を殺害した。サラエボの銃声を繰り返さないためには、アメリカ・イラン両国を6カ国核合意に引き戻さなければならない。

イランとの緊張削減に努めてきたのはフランスのマクロン大統領と並んで安倍晋三総理である。だが、昨年6月のイラン訪問も、12月のロハニ大統領との会談も成果を上げていない。束の間の平和を武装勢力が壊す前に、ワシントンの意図をテヘランに伝えるばかりでなく、ワシントンの政策を変えるような外交努力を日本政府に求めたい。(国際政治学者)

こちらの記事は、2020年1月22日に「朝日新聞デジタル」に掲載されています。

藤原帰一

東京大学大学院法学政治学研究科教授。1956年東京生まれ。専門は国際政治、比較政治、東南アジア現代政治。東京大学大学院博士課程を修了し、フルブライト奨学生としてイェール大学博士課程に留学。千葉大学助教授、東京大学社会科学研究所助教授を経て、1999年から現職。日本比較政治学会元会長。